食生活と身体の退化
〜未開人の食事と近代食・その影響の比較研究〜

W. A. プライス著、片山恒夫訳

第23章 食物は土壌の肥沃さに支えられる


ウィリアム・A・アルブレヒト 
ミズーリ大学コロンビア市

前書き

第20章で私は土壌の消耗と動植物の退化について手短かに触れておいた。アルブレヒト博士は、この分野で新たに重要な貢献を行なった人である。博士は自ら手際よくまとめられた要約をここに私が転掲することを快く承諾してくださった。その講演は1944年6月、ニューハンプシャー州、ダーハムで開催されたA・A・A〔Agricultural Adjustment Administration〕の地区大会で行なわれたものである。この講演については、ニューハンプシャー大学の一般開放講座の総責任者であるヘンリー・ベイリー・スティーブンス博士が、次のようなコメントをしている。

時には威力のある思考が、フラッシュ・ライトのように、大切な問題領域を突然暗闇から光のもとに投げ出すことがあるものである。Wm・A・アルブレヒト博士の2つの講演を聞いた者なら、誰もがそうした体験をしたことであろう。正直いって、私はそこで語られたことが、私たちをしてどれほど遠くへ、またどういうところへ誘うものであるのか正しく理解していないということを告白しなければならない。私たちは、もはや食物が固定した価値をもっていると考えることはできない。つまり、その価値は土壌中の含有物によって変化するのである……。栄養研究は一般に思われているよりも、もっと深い学問であり、従来の研究はその表面を引っ掻いていたにすぎないものであると考えてもよい(ニューハンプシャー州、ダーハム、ニューハンプシャー大学、一般開放講座紀要第66号)。
アルブレヒト博士は、多くの研究報告を出版しており、人類の復興再建という大きな問題については、博士の貢献が大いに役立っている。

プライス博士

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食物の生産は土壌の肥沃さに支えられている。戦争に勝つにも平和を獲得するにも食物が不可欠である。したがって、戦争に勝つのが誰であり、どのようにして平和を永久に得ることができるかということは、すなわち現在および戦後にいかにして土壌の肥沃さを保持し、どれほど効果的にそれを運用するかということを考えることでもある。

浸食作用によって表土にある重要な要素が失なわれるということを考慮しなければならないということが、最近になってやっと国民の意識にも定着してきたようである。また私たちは国家的スケールで栄養失調の問題に積極的に注意を払うようにもなってきた。しかし、土壌の肥沃さには国の内外を問わずひじょうな差異がみられ、それがすなわち食料生産力とイコールであるということを、私たちは未だ認識するに至っていないのである。最近の研究が示すように、土壌の肥沃さというものは戦争に勝つために動員するものとしてばかりでなく、平和を維持し飢餓に対抗する常備軍としても守らなければならないものなのである。

それでは土壌の肥沃さとはどのようなことを言うのであろうか。もっとも単純に言えば、それは地球の地殻中にあって地表で徐々に砕かれ、海に押し流されていく、鉱物や岩石に含まれている十数種の化学成分のことである。それらは次々と循環過程を辿りながら、土壌の一部となったり様々な生命体の養分となるといった基本的な役割を果たすものである。成長中の植物が太陽エネルギーを利用して、空気中の成分や雨水を固定し、我々の役に立つ作物となるのを可能にするのは、無関係な大量の要素のうち発芽中の種子に与えられる土壌中の成分であり、すなわち土壌の肥沃さである。空気中や雨水の中の要素とは、炭素、水素、酸素、窒素といったどこでも共通にみられるものである。

植物を灰にすると、その5%が土壌から摂取した養分である。また人体の5%を形成しているのも一握りのそうした物質である。しかし、それは、日光をとらえる葉の表面、あるいは水分などを吸収する根の表面といった植物の単なる骨格を構成するか、木の外皮の内側で無数の生命維持要素を合成するものとなるかといった、自然の働きが向かうべき方向を決定する力をもつものなのである。

土壌中の肥料によって、食物が単に熱源と肥満をもたらすにすぎぬものになるか、成長や生殖といった形で真に身体の必要とするものになるかが決定される。土壌からの成分は、私たちの身体のわずか5%を占めているだけであるから、一般に私たちはこれが残りの95%を単なる熱源以上のものにするか否かを、前もって決定するものであるという事実をよく承知していないのである。

歴史には政治の変化は記録されていても土壌の肥沃さが衰微しつつあることは記録されていない。

世界戦争は食料生産に不可欠な肥沃な土壌をめぐる大規模な闘いを前提とするものであるということが、今日ようやくにして認められようとしている。戦争に関連した歴史ということでは、軍隊や政治という観点から考えられがちであるが、土壌の肥沃さも戦力であるなどとはほとんど考えられもしなかった。ガフサは北アフリカにあるごく普通の町であるが、その町が生き返ったのは、ドイツ本国の土壌の燐分が涸渇していたからである。ナウルは太平洋上に浮かぶほんの小さな島であるが、そこはガフサの場合と同様に日本人の栄養問題にとって救いの地となっている。ヒットラーが東進したのも、ロシアの土壌はまだ肥沃な状態にあると思い、それに期待をかけたからである。彼の戦艦、グラーフ・シュペーがモンテビデオ周辺を徘徊したり、アルゼンチンに固執したのも、政治的駆け引きや海軍の威力を誇示する演習のためというより、穀類、小麦、肉などとして保持される、世界でも稀なほど豊かで消耗されていない土壌という宝庫を手に入れようと企てたからである。こうした歴史上の現実に起った出来事をいくつか眺めてみれば、我々を否応なく「衣食足りて礼節を知る」だとか、人間というものは実際に、土壌の産物である食物を摂って初めて社会的、政治的存在になる動物であることを思い起こすことになろう。

アメリカ東部と西部、北部と南部といった地理的区分は、普通には生活の仕方、社会的慣習、政治的連帯などにみられる差異によって分けられているのだと説明されている。また降雨量や温度の差異としても、その区分は容易に受け入れることができる。しかし、それぞれの地方では、雨や風が岩石を砕いて土壌を造りあげる過程に差があり、その差がその地方の栄養条件を変化させ、さらに植生、動物、人間の差異をももたらすことになるということまでは思い至ることがない。「人間は食べるから生きていられるのだ」ということや、私たちの食物は土壌の肥沃さに左右されているということが真実であるということは、それほど広範に、また容易に受け入れられることではない。おそらくそれが受け入れられるようになるのは、演繹的に考えることによってではなく、災害を受けるといった経験を通じてのことであろう。

栄養は土壌の肥沃さを前提としている。

私たちは、植物については、作物の種類や1エーカー当たりの生産量を中心にして語るのを常としている。だから私たちは、それらを産出する土壌の肥沃さの程度に応じて植物の化学的組成や栄養価が変化するといった、質的変化については考えてこなかった。そうしてこなかったからこそ、私たちは作物について誤った考えをもち、植物相互の関係を相互依存的に捉えるのではなく、対立的なものと考えてきたのである。ところで今や栄養の問題は、誰の口にものぼるものになったから、植生というものは、必須栄養素を合成して供給してくれるものではあるが、それも土壌の肥沃さによって制限を受けるものであるという考えを公にしてもよい時期となったようである。特に栄養価の高い蛋白質やミネラルの豊富な作物は、降雨量がそれほどなく、例えば、「内陸部」と呼ばれる合衆国の中西部のような、浸出の少ない地域で形成された土壌で育ったものに多いのである。「軽い」パンを作るのに必要な「特許もの」の小麦粉を作るのに適し、蛋白含有量も多い、いわゆる「硬質」と呼ばれる小麦は、普通年間の降雨量が少ない地域に産するとされている。逆に、「軟質」小麦は年間降雨量の多いところに産するとされている。しかしながら、浸出度の低い土壌にみられる、高いカルシウム含有量、その他のミネラルの豊富な蓄積、窒素の著しい活性といった要素を、降雨量が多くて軟質小麦が普通である地域に実験的に供給すれば、硬質小麦を作ることができる。人間や動物の飢えを満たし、生殖能力を助長するのに役立つ植物性蛋白質などの多くの未知物質を合成する高蛋白植物は適度な降雨量がある平原地域によく見受けられるものである。

アメリカ中西部、つまり西経およそ97度線上を境に東に広がる地域にいくつかの特性をもたらしているのは、降雨量の少なさというよりむしろ土壌の肥沃さなのである。その特性とは次のようなものである。(a)「バッファロー・グラス」〔北米中西部に生える短い牧草〕の大草原に大きな鳴き声をとどろかせている野牛の群れが、その地を棲息の場として選んでいること。(b)精製されたものではなく全粒のものと思われる小麦粉が、まさに「食糧」となっていること。(c)放牧場の動物たちの栄養摂取の状態がひじょうに良好なため、生殖が規則正しくいっていること。(d)地味の消耗が一層進んでいる南部諸州においては、兵役に際して10人のうち7人までは不合格だというのに、当地にあっては逆に10人のうち7人が合格するというほど頑健な人物が輩出していること。

蛋白質が生成される場合には、その担い手が植物、動物あるいは人間の如何を問わず、その成分の供給者たる土壌に対して様々なものが要求される。高等動物における身体の発育は、土壌の肥沃さが重要な鍵を握る問題なのであって、唯一光合成だけの問題ではない。土壌という条件は降雨量、新鮮な空気、日光以上に必要な条件なのである。

合衆国東部にあっては降雨量がひじょうに多いことと植生が森林であることが、この地を豊富な地味が浸出してしまった土壌をもった地方として特色づけている。南部諸地域の高温は降雨による地味の減少効果をより深刻なものにしてきた。その結果それらの地域では、植生が蛋白質の効果的な合成にあずかる要因となるといったようなことはありえない。またそれがカルシウム、燐、マグネシウムあるいはその他土壌に含まれ胎児の成長にあずかる栄養素の重要な提供者となることもない。1工一カー当たりの年間生産トン数は高い数値を示しており、それはとりわけ西部の大草原地帯で低い値を示しているのと好対照である。しかしながら、東部でできるものは、森林、綿花、さとうきびが証明してくれるようにひじょうに炭素質に富んでいる。炭素質という特徴の形成には土壌以上に空気、水、日光という要因が大きくあずかっている。この性質は成長と生殖を促進するという面よりも燃料としてまた肥育という点において、際立って高い価値を発揮するのである。

ここに無視しえない一つの基本的な原則が存在する。それは、我々が国家的規模における栄養問題というものに直面していることを示してくれるという情報価値をもっている。なるほど、降雨量が多くしかも高温という条件下にある土壌であっても植物の繁殖に何らかの力を提供してくれるにはちがいない。しかし炭素質に富む生成物の光合成が際立った特徴となるこうした条件下では、限られた量しかない供給源の主流をカリウムが占めている。カルシウムをはじめ通常カルシウムを含有している必須要素のすべてが不十分にしか提供されていないと、植物の内部で行なわれる蛋白質やそれと同等の栄養価をもった多くの化合物の合成自体が不可能である。国家的問題は主としてカルシウムとその他の蛋白質の生成にあずかる繁殖要因とを、いかにして動員するかという問題なのであって、連邦政府の統制のもとに蛋白質を再分配するというだけでは不十分なのである。地図に示された土壌の肥沃度分布は、栄養摂取がとりわけうまくいっているところと、大いに問題があるところとをはっきり描き出している。また特別な土壌改良措置によって、枯れた植物に救いの手が差し伸べられた地域もはっきり浮かんでくる。

ヨーロッパの土壌の肥沃度分布は我が国のそれを写し出す鏡である。

合衆国の人口集中の進んだ地域は、東部のしかも地味の低下した土壌に分布している。こうした地域の人々に対してホラス・グリーリーは「若者よ西部へ行け」と言ったが、この言葉は理に適った忠告である。チェルノーゼム(Chernozem)と呼ばれる黒い腐植土壌で硬質小麦が生育する地、そして小麦と同じ供給者、すなわち土壌の働きのおかげで、パン籠と肉を入れる籠が溢れんばかりに収穫、獲得できる気候の幾分湿潤な地、アメリカ中西部に、彼らが移住することが好都合だったのだ。我々の現代の繁栄をもたらしたのは、まさにそうした人間の移動だったのである。

ヨーロッパの事情もこれに似ているが、旅の向かう方角がアメリカの場合とは反対だったし、その移住にもずっと長い期間を要したのだった。ひじょうに多い降雨量の下、地味の低下した土壌に人口の集中が現われたのが、西ヨーロッパ地域である。そこの人々は「メイド・イン・ジャーマニー」と記された製品と引き換えに、肥沃な土壌を求めて開拓時代の合衆国へ渡って来た。つい最近では、ヒットラーの東方遠征を通じてロシアの黒い腐植土に広がる硬質小麦地帯が、肥沃な土壌の標的になった。このように土壌の肥沃さというものは、世界戦争において少なからぬ意味を付与する要因なのである。

土壌の肥沃度が植物および動物の栄養摂取のパターンを決定するのと同様、カルシウムと燐はその土壌の肥沃さを決定する上で際立った役割を演じる要素である。

生物の行動習性は一般に認められている以上に、栄養の根本資源たる土壌と密接に関連づけられている。土壌中のカルシウム含有量が浸出や収穫によって減退したり、同じく土壌に含まれている燐がほぼ全般的な不足に見舞われると、骨が両要素の主たる保管場所となっている動物にたちまち影響してくる。森林地帯では、成長と腐蝕の循環過程を通して栄養素を順に送っていくために、毎年繰り返される落葉とその腐蝕が、樹木の生命を保持する必要条件だといってよい。脱落した鹿の枝角やその他の骨格部は、それらに含まれているカルシウムや燐が動物世界の食物連鎖のなかで留保せられる一方、それが溜まって増えていくのを防ぐために当の動物たちによって食べられるといったことに、どんな不思議があろうか。新しく角の生える時期になると鹿は肥料が施されていない木よりも、施肥の行き届いた木を選ぶことだろう。高速道路付近の森林地帯に生育している松の木が、人間の手が一切加えられていない状態にあるならば、施肥や人手の行き届いた土壌からその高速道路の沿線に移植された松の苗木が、鹿の選ぶところとなる。野生の動物たちは、適度な肥沃さのレベルにある土壌に生えた植物を好んで採るというが、それはまさに彼らが「自分の身体の医学を知っている」というほかないであろう。

野生動物の分布、家畜の現状あるいは分布状態、動物の病気の現われ方などは、栄養を供給している土壌の肥沃さがどのような地理的変化を示しているかというパターンに重ね合わせることで、視覚的に確認することができる。私たちは、こうした動物の分布状態が、全体として気候に支配されていると信じがちである。東部の森林地帯では数種の七面鳥しかいなかったため、清教徒たちの猟もそれに限られていた。だからこそ感謝祭という国家的伝統にそれがなくてはならぬものになってしまったということを、私たちは忘れているのではないだろうか。一方、中西部の肥沃な平原地帯ではアメリカ野牛が無数にいたからこそ、通常はその毛皮だけが利用されていたのである。

今日では、家畜の分布パターンも似たようなものであることが明らかになっているか、以前より「病気」にかかりにくく---より正確に言えは栄養失調になりにくく ---なっているが、さらに生殖という面でもより規則的にまた一層多産になってきている。動物がよく繁殖するのは、石灰分が多く浸出が少なくやや湿った土壌のあるところである。病気が集中的に出現することもなく、ある種の病気がほとんど出現しないようなところも、こうした条件の土地である。肉牛は、このような土地で子牛を産ませ育てさせてから、湿り気のある土地に移送して肥らせている。牛をあるレベルの肥沃さをもった土地から別のレベルのところへ移送することは、アルゼンチンではどこでも行なわれていることである。

アメリカ合衆国の中西部から土地の痩せた東部に向かうにつれ、動物の身体にも問題が多く現われるようになり、肉やミルクの生産にも重大な支障をきたすようになることがわかる。そうしたことも南部や東南部に行くにつれ、ひどい状態は見られなくなるのである。授乳熱、アセトン血症、その他の生殖障害などは、家畜産業に多大の損害を与えるものである。しかし、それも例えば大平原地帯のように、蛋白質やミネラルが豊富で飼料価値の高いまぐさが供給されるとか、東部や東南部の森林地帯でのように炭素質の多い不良飼料しか生産されないといったことに見られるような、それぞれの土地の肥沃さの程度、その分布パターンと密接に関連しているように思われる。東部や南部の諸都市の畜舎で問題となっていることは、獣医よりむしろ農学者や土壌学者が取り組まねばならない問題であるといって良い。

土壌処理法を使った実験によって明らかになったことは、カルシウムや燐などは、処理を施した土壌で育てたまぐさや穀粒という形で摂取されて、動物の生理や生殖に重要な役割を演ずるということである。そのことを手近な動物の例に適用してみれば、それらの効果が、羊の場合では、消費した飼料当たりの成長率や羊毛の質に差が出だということが記録されている。うさぎの場合でも、燐酸塩しか使用しなかったまぐさを与えた場合より、石灰石と過燐酸塩とを添加して育てたまぐさを与えた方がより早く効果的な成長が見られたのである。

添加した肥料の影響は、動物の生理全体にはっきりと現われてくる。この事実は単に、羊毛の重量や質の差のみでなく、骨格やさらに精子の形成や生殖一般にもはっきりした差として現われるのである。うさぎの骨では、その重さや体積のみならず、弾力、密度、幅、硬度といったその他の質の面でも大きな変化が見られた。人工受精に使われた雄うさぎを、土壌処理を施していないマメ科植物を飼料として育てたところ、数週間後には不妊になってしまった。ところが石灰岩地帯で収穫した飼料を与えたものは不妊にならなかったのである。動物の生理状態というのは、一見したところでは、土壌のわずかの化学的変化などとは全然関係がないように思えるが、土壌改良の影響は直接反映するものである。それは前述の2群のうさぎの飼料を互いに取り替えると、不妊のうさぎは多産になり、逆に多産のうさぎが不妊になったことからも示される。土地がそれほど肥沃でないところで、他の方法によって動物の繁殖を盛んにしようとしても、経済的に負担となるばかりである。しかし、自然にまかせるにしろ土壌処理を施すにしろ、土壌を肥沃にすることによって多産にするのであれば、経済的にも大いに有利な方法であるといえる。

動物は本能に従って必要な栄養を適切に補っている。

動物は、賢明にも適切な食物を選択するという本能を未だに保持している。それも、炭水化物や蛋白質を混ぜた尿素や燐酸といった単純な飼料を与えて、牛を化学工学的な装置に改造しようと私たちがいろいろと試みているといったことがあるにもかかわらずである。ミルクは、生殖作用で演じる役割が特に有効なものであるだけに世界中で利用されている食品であるが、子牛に十分な日光と大量のミルクを与えても土壌の肥沃でない土地で育てられれば、子牛がくる病にかかってしまう以上、単にミルクを生産する化学工学的装置に還元してしまうことなどはとてもできない。土壌の種類によっては、栄養失調「病」としてくる病が発生することは、それが子牛に現われるものである限り、別に新しい名前で呼ぶまでもないであろう。

私たちが牛という生物を生命の系統樹の低い位置、あるいは化学イオンのみで自生でき、複合物質を必要としない植物や微生物のレベルにまで引き下げたとしても、それが自分の本能に従っている限り、牧場の混合牧草の中から特定の草を選択する能力を失うことはない。うまくしたもので、牛は自らの生理作用によって体内で7種の必須ビタミンを合成してくれる微生物としっかり手を結んでいる。しかしながら、私たちが忘れかけているのは、そうした体内の住人がこうした働きを期待通りにやっていくには、土壌が肥沃であることが何よりも必要であるということである。英国が戦時中に、そうした微生物による共生的なビタミン合成を行なう反芻動物としての牛を大切にし、それができない豚や家禽を減らしたことは、私たちが信じる以上に、土壌の問題が国民の栄養問題に直接有効な貢献を成し得ることを示すものである。

そうした動物の本能の働きをみれば、私たちも否応なく土壌には様々な相違があるのだということを認識せざるを得なくなる。口もきけない動物たちが炭水化物類や蛋白質の多い牧草を選択するだけではなく、様々な肥料で処理された土壌で栽培された同種の穀類から有効な穀物だけを選別するのである。動物にいろいろな故障や問題が現われてきたのは、その中身の割合だけが異なる混合飼料を使用するようになってからである。豚は、別の飼葉桶に入っている穀粒を、単なる混合の割合の相違などは無視して土壌処理を施した一定のものだけを特に選んで食べるのである。ねずみも、穀物の入った袋の中でも豚が選んだ袋は破るのに、ほかの袋には手もつけないといった識別力をもっているという。実に正確に肥えた土壌を求める力をもつ動物の欲求というものは、土壌処理法以上に動物を育てる導きの糸として賢明な働きをするものである。

ジョーンズ・ホプキンス病院のカート・リッチャー博士は、例えば、ねずみにみるようなそうしたすばらしい識別力の生理学的基礎について述べていた。ねずみは体内のインシュリンの循環を断ち切ると、砂糖を摂らなくなってしまう。ところが、インシュリンを投与してやると、その量に応じて砂糖の消費量が増えていった。餌の中の脂肪についても同じで、それを消化する能力を阻止するにつれ、脂肪を摂取しなくなったのである。こうした動物の本能を見て、私たちが土壌の性質いかんに注意を向けなければならないのは、一国のなかでも各地方で作物の生産や家畜の繁殖パターンに差があるのは、動物の生理に差異があるからであり、このことはその動物の取りあげる食物の違いであり、それはまた土壌の性状に違いがあるからである。また、家畜の栄養障害はあまりにも簡単に「病気」とされ、土壌に注意を向ければ治ったかもしれないのに、避けられない病気として受け取られてしまうのである。パン籠や肉を盛る容器がどれだけ良い品物で満たされるかを決定するのは、土壌なのである。

人口の分布も土壌に関係がある。

東部の大都市の市長が、農業問題を抱えた農夫たちに会いに「西部への入口」と呼ばれる地域を訪れたことによって、土壌の問題は国家的な重大事となった。食糧問題に対する経験が増せば、土壌の問題ももっと単純なありふれた話題になるはずであるし、田舎の人のみでなく都会の人にとっても食糧生産の問題が日常的な言葉で語られることになるだろう。人間が分布しているパターンやその病気の分布パターンも、小麦や家畜の産額などと同様、全国的なレベルで容易に数値化しえるのであるが、土壌の肥沃さが後者を決定しているのと同様、前者をも決定しているのに、前者については土壌の肥沃さという点から考えられたこともない。人間には放浪的な性質があるから、その身体、健康、顔の形状、精神状態などどの側面をとっても、その人間に栄養を与えている土壌はいったいどこのものなのかということを言い当てられないぐらいコスモポリタン的な存在になっている。人間は広範な土地から食物を入手しているので、その栄養のレベルと土壌の肥沃さとを関係づけるのは困難なことである。食物を加工したり精製すれば、我々に必要なものが失なわれてしまうということを、ようやく私たちも信じるようになってきた。しかしながら、私たちはまだ、土壌の肥沃さが食物の栄養価を決定し、ひいては我々人間の身体や精神にも影響するということを認めるまでには至っていないのである。しかも未だに、質より量を基準にしているのである。

さて今や私たちは、州、国、できれば全世界にまで、ある種の道理を押し広げようと考えているのであるから、その地方地方の土壌の肥沃さとの関係のもとに成り立っている経済、習慣、制度などを乗り越えることができるかどうか検討してみる必要がある。どの文明も、制度などにではなく、その資源を前提にし、また依存しているのだから、土壌という基本的条件を十分考えることなく、制度の変更を行なうことはできない。

土壌の肥沃さに注意を向ければ国民的な楽観論が湧き上がってくる。

土壌学、植物生理学、生態学、人間栄養学、その他の学問でも研究は行なわれてきたが、人間の福祉に対する研究の歴史は、まだほんの数年を数えるにすぎない。こうした貢献も、いわば、限られた地域で自由に使える余剰生産物を急いで消費しようとしているようなものである。今度は、研究者の目を生産の方へ向けさせねばならない。そして、生産というのは単に食糧以外の物質を変形するといったことではなく、自然がもつ合成作用を食糧生産に応用することなのである。我が国の拡大した化学工業が、戦時から平時の普通並みに戻った時には、土壌の消耗が国家的な問題になり、将来の国民の健康や体力を確保するには土壌を改善し、良好に保たねばならないということから、今日の科学や産業も一致してそれに乗り出すことを期待したい。


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